茜色に焼かれる
4時に起きてランニング。
昨日の雨は止んで晴れているけど湿気がひどい。
足も重たく、鈍い痛みもあって、あまり力を入れられない。
15キロほど走って、ペースは4分49秒。
午後は映画、「茜色に焼かれる」。
夫を交通事故(池袋の暴走事故がモデル)で亡くし、コロナ渦で経営していた喫茶店が潰れてしまった主人公:良子を尾野真千子が演じる。
劇中、夫の交通事故の加害者家族、良子の勤務先のホームセンターの店長、ダブルワーク先の風俗店の客等々、観ていて「屑だなぁ」と思わせる態度・対応をする人達がたくさん登場する。
そんな人達に対し、良子は怒る素振りは見せず、怒りや不満を口にする息子:純平や風俗店の同僚:ケイに対し「まあ、がんばりましょう」と口にする。
映画の冒頭、良子は演技が上手であるとのメッセージが表示されることからも、良子が怒りを抱えながらも、それを吐き出すことを我慢していることが伺える。
なぜ、良子は怒りを外に出さないで、時には笑顔(といっても、心からの笑顔でないのは明らかだが)を見せるのだろうか?
良子が純平に話す「ルールを守りなさい」からその理由が伺える。
おそらく、夫が死亡してから、良子にとって理不尽な事が沢山あったのだろう。そうしたことは、ケイと訪れた居酒屋で吐露される。
良子も、最初はそうした理不尽できごと、屑な人達に対し、怒りをぶつけたのかもしれない。
ただ、そうした怒りに対し、法律や常識(と言われるもの)といったルールが立ちふさがり、良子の心を削っていったのではないか。
そんな良子だが、我慢せずに怒りを伝えるのが純平のイジメに対して。
担任に対して対応を迫り、いい加減な応対に怒りをぶつける。
この、純平に関しては我慢しない、という点は、映画のラストに繋がっていく。
劇中の大きな転換点は、良子が中学時代の幼馴染:直樹から2人の交際についての本音を聞かされる点で、そこで良子が怒りを外側にむけることになる。
観ていて違和感を感じたのは、良子が抱え込んできた怒りが、直樹個人に向けられて収束してしまい、社会的な理不尽にまでは向かっていかない点。
入り口として池袋の暴走事故や新型コロナという社会的(=誰もが大なり小なり感じている)理不尽さが提示されるのに、出口では息子に対する愛情にテーマが置き換わってしまっているように感じた。
ケイのように、家族を持たない・持てない人間は、どうすれば良いのだろうか?
オレオレ詐欺の受け子をやらされる直樹は、弱者を虐げるシステムに組み込まれることになる(直樹もまたそうしたシステムの被害者になったとも言える)が、そのことはサラリを片付けられて良いのだろうか?
上映時間は2時間半の作品だが、中だるみがなく、長いとは感じなかった。
一方で、まとめ方にはもやもやしてしまう作品だった。